訳文

退院のメドもついたのだが、日にちが確定しない所為で、なんだかジリジリ。
ZERO3で2ちゃん見たり、mixi見たり、熊アニキ・熊オヤジ満載の海外のエロサイト見たり(ちょっとデブ専入ってます)も、さすがに飽き飽き。
持ってきた本の残りは、ロバート・コーミアの『ぼくが死んだ朝』/"After the First Death"ブックオフで見つけた、小松左京かんべむさし編の、アシモフズのアンソロジー『さようなら、ロビンソン・クルーソー 』、そして、数年前の『このミス』だか文春のミステリーベスト10で、法月綸太郎が褒めてた、ピーター・ストラウブの『ミスターX』/"MR.X"の上下。
ただ、ネットに飽きたように、活字にも飽きるんだわ。でまた、なんとなく、どの本にも気乗りしない。面白そうだけど、上下二巻と長大なストラウブ。沈鬱そうなコーミア。短篇アンソロジーなのでサクッと読めそうだが、収録の八篇のうち半分が既読の『さようなら、ロビンソン・クルーソー』(巻頭の、ジョン・ヴァーリイの表題作だけ再読した。傑作!)。


という訳で、目的と手段をチェンジリングして、こうやって、はてなに日記を書いてるんだが、そういえば、『ひとりっ子』の訳について、書き忘れていたことを思い出した。


前々から思っていたのだけれど、山岸真訳のイーガンを読んでて、なんだかアタマにすんなりと入ってこないことが多い。たとえば、

いまではときどき、シーアンの主体的体験は自分にとって根本的に異質なものだ、などということがありうるとかつては思っていたのがほとんど信じられなくなる。

『ふたりの距離』/"CLOSER" p.191

とか、

フランシーンは物思いに沈んでいるか、でなければフライトで疲れているかだ。時差がほとんどない上に、ぼく自身がフランシーンのもとへ北に飛んだときの経験が、かつて機内にすわりどおしで何度もやらされた海をまたぐマラソンに比べればなにほどでもなかったものだから、サンフランシスコを遠方の地と考えるのはむずかしかったが。

『ひとりっ子』/"SINGLETON" p.360

とか。
引用のために書き写してみても、改めて感じる。やっぱりわかりにくい。
もちろん僕は、SFをペーパーバックで読んだり出来ないし、錯綜した論理を魔術のようにあつかうイーガンの文章を、右から左に英語に移すと、自然とこんなわかりにくい言葉になるのかもしれないとも思う。
でも、他の人が訳したら、どうなるんだろう?と、そういう興味はあるね、やっぱり。
その辺どうなんでしょうか、翻訳のえらい人?