ストリート・キッズ』/"A Cool Breeze on the Underground"

ストリート・キッズ (創元推理文庫)
何年か前の『このミス』で一位を取っていて、ずっと気になってたこの本をようやく読んだ。
最初の1ページ目から、釣り針に引っかかった魚のように、本の中に引き込まれて、そのまま喰い入るように最後まで読み進めてしまったんだけれども、読んでる途中から、「なんとも変な小説だなあ」と、ずっとそう思っていた。
いや、面白くなかった訳ではないよ。
訳者である東江一紀も、あとがきで、

矛盾した言いかただとは思うけど、コントロール抜群の荒れ球投手ですね、この人。構想なんて知るものかと言いたげに、奔放に、自由に、物語を綴りながら、並外れた腕力で、筋を一本通してしまっている。
って書いてるけれど、なんか物語がスムーズじゃないんだ。でも面白い。
そこが「変だなあ」と思っただけ。


いまさらプロップの昔話の形態学 でもないとは思うけれど、ジャンル小説であればあるほど、著者も読者も、どこかにそのフォーミュラを意識している筈。
この小説も、ストーリーは単純で、云ってしまえばロスマクなんだ。ウィチャリー家の女 。 It's a Family Affair. それも、実は、オリジナル(?)より、ひねりが半回転足らない感じ。
でも面白い。読ませてしまう。
筆力があるんだろうね。


でまた話は飛ぶんだけど、ジャンル小説と文学の違いって、事件が、起こるか/起こらないか、の違いだと思うのよ。あるいは、あってしまった神隠しから、帰って来れるかどうか?
いやゴメン。大塚英志の受け売りなんだけどさあ(笑)
ジャンル小説は、キチンと神隠しにあって、キチンと帰って来れる。
でも、文学の場合は、帰って来れなかったり、ときには、神隠しそのものが、起きなかったりする(もちろん、ジャンル小説と文学、このふたつの極のあいだは、境目のないグラデーションで埋められていて、無限のヴァリエーションが存在する)。


てか、スピード感。
フォーミュラは、自然と、見えない導線を感じさせて、それは読者の視界をせばめる。
かたや、理想的な文学には、決して導線などない(筈だ)から、それはまさしく人生のようにのたくって、あるいは悶えて、または、停滞する。


いや、つまりは、この小説、ジャンル小説と云い切ってしまうには、スピード感が足りなくて、でも、この間を埋めてしまえる筆力は、実は文学的な"なにか"なんでないかと。なんかこう、言葉にしてしまうと、陳腐だけれど。